東京家庭裁判所 昭和40年(家イ)496号 審判 1965年12月18日
申立人 野田宏男(仮名)
相手方 藤井守(仮名)
主文
相手方藤井守と申立人野田宏男との間に親子関係の存在しないことを確認する。
理由
申立人は主文同旨の審判を求め、相手方との間にその旨の合意が成立した。野田光男、藤井守の各戸籍謄本、川井平吉の除籍謄本、野田光男の住民票謄本、野田宏男の出生届、藤井守の事実申立書、野田宏男の小学校及び中学校の卒業証明書、同人の臍の緒並びに野田クミコ野田光男申立人野田宏男及び相手方藤井守の各専問の結果を綜合すれば次の(一)ないし(三)の事実を認めることができる。すなわち、
(一) 野田クミコは大正一二年頃相手方と事実上の婚姻をなし、大正一三年四月五日その届出をなし青森県○○市、現東京都○○区○○○一丁目七五八番地などで同棲し、その間に四人の子を儲けたが、性格の相違などから家庭は不和の状態がつづいていた。かようの事情のため、昭和一〇年八月頃野田クミコの母が上京しクミコを連れて札幌に帰り、以来クミコは相手方の許に帰ることもなく、また相手方と同棲し夫婦関係を結ぶようなことの全くなかつたこと。
(二) 野田クミコは、その後間もなく、相手方に対し離婚に合意するよう求めたが、相手方がこれに応じないので、単身上京し保険の外交員をなし、喫茶店などで働いていたが、昭和一三年六月頃から野田光男と知合い、同年暮頃から内縁の夫婦関係を結び、○○区○○○○町その他で同棲するに至つた。その後野田クミコは昭和一四年一〇月二四日○○区所在の○○○病院において申立人野田宏男を出産し、昭和一七年三月三一日野田明男を前記○○町で出産したが、いずれもその出生届をしなかつた。野田クミコと相手方との離婚は東京民事地方裁判所の人事調停によつてなされ、昭和一六年一〇月一日その届出がなされ、野田クミコはその後京子を出産したが、離婚後一〇年を経ないと婚姻ができないものと信じていたので、前記二児及び京子につき出生届をなさず、昭和二六年七月一二日野田光男との婚姻届をなしたので、その際右二児につき出生届をなしたが受理されなかつたので、右二児につきなお戸籍の記載がないこと。
(三) 申立人は出生後今日まで、野田光男同クミコの許において監護養育されて生活してきたものであること。
を認めることができ、以上の事実によれば、申立人が相手方の子でないことが明らかである。しかして、申立人は野田クミコが相手方と婚姻中にこれを懐胎したものであるので、一応民法第七七二条により相手方の子と推定されるので、申立人は相手方の子として出生届がなされるのが通常であり、然る後これを争う場合には、相手方において所定期間内に嫡出子否認の訴を提起するか、または前記のように野田クミコと相手方との間に同棲の事実のないことが明らかであるとして、相手方その他において、相手方と申立人との間に親子関係の存在しないことの確認を求める訴を提起しうるものとされている。この親子関係不存在確認の訴においては、戸籍薄の記載上存する親子関係を否定し、その判決によつて戸籍の記載が抹消されるので、確認の利益の存することが明らかであるとされている。本件においては、申立人につき出生届がなされていないので、不存在を主張すべき戸籍簿上の親子関係が存在せず、相手方も親子関係があると主張していないので、親子関係不存在確認を求める利益があるや疑いなきを得ない。然しながら、野田クミコが前記日時に申立人を出産した以上、申立人は民法第七七二条により相手方の子と推定される関係にあり、これは申立人の出生届の如何に拘らず存在し、また、前記各訴の判決のあるまで存在するので、かような関係を否定し親子関係不存在を確認しうれば、戸籍薄の記載が如何になるかに関係なく、申立人と相手方との間の争となりうる関係を即時に解決するものにて、確認の利益あるものと考えざるを得ない。けだし、訴の性質が異るとはいえ、嫡出子否認の訴において、嫡出子の出生届前、すなわち民法第七七二条の推定の関係の存する限り、出生届の如何に拘らず、その訴を提起しうるものとされている(昭和一三年一二月二四日大審院判決民集第一五巻二五三三頁)ことに比すれば、前記の場合親子関係不存在確認の利益を認めることを不当とはなし得ないであろう。
よつて、申立人と相手方との間に前記合意が存在し、前記事実につき当事者間に争がないので、申立人の申立を相当と認め、主文のとおり審判する。
(家事審判官 脇屋寿夫)